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◇◆球体という哲学を考えてみた。。◆◇

◇◆一度で終えるのか、再び今に戻るのか?!◆◇
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地球というプレイヤーが何億年かけて、創り出すストラテジーゲームだ。

例えば、幼いガキの頃に、平安京エイリアンで遊んでときめいていた頃から、今はGTAⅤや、Fallout4等、仮想世界がFullHDで遊べる時代になっている。これも40年位の現世に生きる人類の進歩で、たった40年程度の出来事(テクノロジー)で、これだけゲームも進化しているのだ。ならば、古の超古代文明が、我々現世に生きる人類の遠い遥か一億年先の未来だとすれば、古の古代文明(超機械文明であったかもしれない)が、遺伝子を操作して、新たな生命を誕生させて、地球という球体がどんなに環境が荒れても(生きていけない環境に陥った時代が何億年と続いたのであっても)、古の化学が、微生物からいずれ人間へと進化する遺伝子プログラムを作り上げて、最終的には何千年後に、また遥か先に進化した超機械文明が再び作り出されるプロセスを辿っているのも、絵空事の話ではない。遺伝子を操作して、新たな何かを生み出す。または、新たな科学を発見して、新たなエネルギーを導くのも、そう遠い話ではない。たかが100年程度の人間の寿命だが、本当の人間たるものは、400年は生きているのかもしれない。しかし、地球という球体からすれば、100年も、1000年も大したことはない一瞬の時間なのかもしれない。我々は、高度に進化したゲームの中で、地球という球体に再生され続けていると考えるのも、間違いではないのかもしれない。意識という不確定要素も、生命が朽ち果てた際は、いったん地球という球体と同化して、また何らかの形で、生命として誕生と死を繰り返すのかもしれない。

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もっと深く探れば、地球という球体は自分自身であり、また生命という無限の命とともに共存する、たんなる微々たるエネルギーであるのかもしれない。無限に続くものは、きっと終わりなき宇宙の先も、別の角度から見たら、単なるコカ・コーラの中にある炭酸の泡のような、そんなたわいもない空間なのかもしれない。ただ、我々はなにゆえに地球という球体の中で、増え続けているのか、その答えはまだ見つからない。。おそらく、海辺の砂にも満たない存在なのかもしれない。。ただ、思うことは、現世の人間として生まれて、今こうして、寿司を食べたり、マクドナルドのバーガーを喰ったり、iPadをしたり、VaioでWebサーフィンしたり、PS4やSteamで遊んだり(笑)、娯楽や愛を人間の形として楽しむことが、一度きりなのか、死して目を覚ませば、現世の人間とは似ても似つかない高度生命体と地球の遠い古(近い数千年後の未来)に、別の生命体として、生まれているのかもしれないと思うと、今を楽しく生きる理由が見えてくるのだ。。地球と同化するのは、現世の人間として思う存分に生きてから、そのあとで良い。。もっと詳しく探れば、子孫を残せば、意識が続くのであろうか。

実に興味深く、考えているようで、適当なのだが、我々人間であるうちは、人間でしか生きられないし、人間程度の喜怒哀楽に生きる生き物でしかない。それは、蛇は蛇。金魚は金魚であるように、住む世界と志向は限界がある。いくら頑張っても、わからないものはわからない。。

われわれ人間は、良くも悪くも、地球という球体に試されているように思う。。

人間より優れた生命体や世界は、人間には見ることはできないであろうし(蛇は、ウォークマンを操作して音楽は聞けない)、人間である限り、理解も出来ない筈。人間は人間でしかない。志向も生き方も、どんな天才でも、人間の範疇を超えることは無い筈。

そして、人間である限り、永遠に解けることは、ないのだ。。

死んだ先のことが、何故わからないんだ?

人間として生まれてくる前のことがなぜ思い出せないんだ?

球体という哲学を考えてみた。。

解けない哲学=球体の哲学としたい。。

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人間の喜怒哀楽という感情も、胡散臭いバグであるように思える時がある。。


◇◆家庭菜園の準備◇◆
今日は、「胡瓜」と「中玉トマト」と「茄子」そして「オクラ」をマルチで植えた。そういえば、出荷野菜で忙しかった時期に植えていた菜園の「玉葱」や、「セロリ」が収穫できそうな状況だ。ほとんど放置ぎみの栽培でしたが、そこそこ育っている。少し植えたつもりが、家族で喰う分なら、有り余るほど収穫できる。
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